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■Coo's Note■

1 : ◆Coo/24rCRY :03/02/03 22:48 ID:CXVMO/R4
要するに日記みたいなものです。
たぶん読書メモみたいなかたちになると思います。

2 :ソウコム ◆EWLeroLero :03/02/03 22:49 ID:o76r4icQ

はいはい、期待していますよ。



3 :はじめまして名無しさん:03/02/03 22:51 ID:???
>>2
嫌がらせスンナ いつもいつも
お前の唯一の趣味か?

4 :(ノ゚ω゚)ノうんこ ◆UNKot5z58g :03/02/03 22:52 ID:???
(ノ゚ω゚)ノ<コンバンハー

5 :ソウコム ◆EWLeroLero :03/02/03 22:53 ID:???

>3
どこが嫌がらせだよ。死ね



6 ::03/02/03 22:55 ID:6kHueoSo
嫌がらせってことはないだろ
まあ茶々入れに見えないこともないが

7 : ◆Coo/24rCRY :03/02/03 22:56 ID:???
というかまぁ個人的な読書メモにするつもりなので別に期待しなくて結構ですよ

8 : ◆Coo/24rCRY :03/02/03 22:58 ID:???
本当は夢・独り言板に立てるつもりだったんですが
このホストでは駄目だとか言われたのでやむなくここに立てさせて頂きました。

9 : ◆Coo/24rCRY :03/02/03 23:55 ID:???
 島田裕己「個室〜引きこもりの時代」(1997/日本評論社)

個室に引きこもることが、病理や社会問題および犯罪へと結実してくるのは、実は
個室での暮らしに慣れていないからではないのか。例えば、ベストセラーになった
B・スポック「スポック博士の育児書」では、早期からの幼児の自立を主眼として
幼児への抱き癖や過度な添い寝に警告を付しており、アメリカではかかる「個室型
育児」が施されてきている、という。

結論部で島田は言う。「私達はある程度成長した段階から死に至るまで常に自分
だけの個室を確保しながら生きていくものだと考えるべきではないだろうか」。
とすれば、引き篭もるための個室を解体するのではなく、より日本の風土に適した
独自の個室文化を模索していくべきではないだろうか、と。

しかし、そのスポックの育児書は現在の教育学の成果からみて全くのデタラメだと
いう批判も数多くあるし、今のアメリカに引きこもりと呼んで差し支えない人達が
推定何人いるのか知らないけど、果たして、島田のいうような「個室型教育」や
個室文化なるものが本当に現代アメリカあるのかどうか極めて疑わしい。

ただ、引きこもりをどうやって社会に復帰させるかとかいった、一般的な通念とは
逆の姿勢での仕事をしている、という点は唯一評価できると思った。

10 : ◆Coo/24rCRY :03/02/04 00:49 ID:???
 森田ゆり「ドメスティック・バイオレンス〜愛が暴力に変わるとき」(2001/小学館)


研究書だと思って読んだのだが、有り体にいうとDV解説・入門書に近い内容。
DV被害者の為に著者が設立した「エンパワメント・センター」に努めたいとか、将来
そっち方面の職に就きたいと希望している人にとっては難なく読める文章なのだろうが
それ以外の人にとってはちょっとどうしようもない文章じゃないかな、と思った。

11 : ◆Coo/24rCRY :03/02/04 22:49 ID:???
 いかりや長介「だめだこりゃ」(2001/新潮社)


いかりや長介の自伝である。
通読してみて素朴に感じたのは、いかりや長介とはいったい何者なのかということ。
一応、世間ではドリフターズのリーダーという認識が一般的だと私は思うのだが、
アーティストとしての、また俳優として「いかりや長介」を含めて語った本書を読む限りでは、
世間が思うほどには、いかりや自身、ドリフターズへの思い入れはないのかもしれない。

面白かったのは、いかりやはバンドではベースマンだったのだが、どうも日本で最初にチョッパー
を始めたのはいかりやだという伝説があるらしく、若い連中の間でチョッパーを「長介弾き」
「いかりや弾き」と呼んでいるのだという。まだドリフが主にバンド活動をしていた当時の
ベースは、今のようなギタータイプではなくウッドベースであり、それを弾く際に人差し指と中指
ではなく、親指を多用していたため、遠目からみてそれがチョッパーのように見えたのではないか、
といかりやは言っている。その真偽は定かではないが、しかし、日本で最初にフェンダーのエレキ
ベースを手にしたのは私ではないか、といかりやは言っている。
寡聞にしてか、そのいずれにしても私は聞いたことがないけれど。

12 : ◆Coo/24rCRY :03/02/05 00:22 ID:???
 立花隆「僕が読んだ面白い本・ダメな本 そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術」(2001/文藝春秋)


「週刊文春」に現在も連載中の「私の読書日誌」約五年分を纏めたもの。始めに立花の読書論、次に
連載稿、最後に当時ベストセラーとなって騒がれた辰巳渚「捨てる!技術」への批判という三部構成
になっている。

立花はこの連載をいわゆる書評としては書いていないという。「いわゆる書評」というのは、「その
本に対して同じフィールドの人がもっともらしい評価を偉そうに書き連ねている」ことであり、
そんなことをよりも、その本が読む価値のあるものだったら、そのことだけを手っ取り早く伝えてくれ、
評価は自分が下すから、と言いたくなるのだという。大方の読者は書店で本を買う際に
(1)店頭で本を手に取る
(2)立ち読みで本の値踏みをする
(3)懐と相談する
というステップを踏む。書評子にできることはこの(1)、つまり、きっかけを与えることに尽きる。
だからその本を一度手に取ってみたいと思わせるようなことを書いたり、魅力的な引用箇所を見つけることに
集中力を傾注しているのだという。

確かに、学術系の書籍の書評などにはこういう書評がまた多いのである。まぁ彼らからみれば、あるいは
そういう「論壇事情」を知る連中にとっては「お、センセ、やってまんなぁ」的に、それがまた一興では
あるのだが。

「捨てる!技術」への批判は恐ろしく苛烈なもので、ほとんど「カス」みたいな本だと裁断している。
まぁ確かにカスみたいな本だから取りあげる必要も無いと思うが、この本はいわば「完全自殺マニュアル」
と同じ様に、内容云々よりも、それがなにゆえかくも社会に広く受け入れられたのかという、より上位の
ステージに立って考えてみるべき問題だろう。

13 : ◆Coo/24rCRY :03/02/05 22:53 ID:???
 大庭健、安彦一恵、永井均 編著
 「なぜ悪いことをしてはいけないのか〜Why be molal?」(2000/ナカニシヤ出版)


「倫理学のフロンティア」という叢書の一冊で、倫理学および哲学者など八人による論考集。
前書きにいきなり「本書の編著には安彦以外あまり乗り気ではなかった」という大庭のコメントが
付されている。というのは、この問題をめぐる永井と大庭の論争が、現時点では建設的になりえない
ことが既に解っていたからだという。本書は、まず編著者がそれぞれの考察を提示し、それを叩き台
にして各論者が検討さらに再検討を加えるという、バトルロイヤル的な体裁になっている。
企画としては、はっきりいって全くの破綻であり、論者同士の論理的なすれ違いも甚だ明らかで
あるのだが、結果的にそれが本書を白熱的な論争集に仕上げており、読み応えは素晴らしい。

利己的であるよりは利他的であることを志向することあるいはその間で葛藤することが道徳だ、と
いう大庭にたいして、安彦は、では道徳を遵守することが利己に繋がる場合はどうするのかと問う。
同じ様に永井は、大庭がいう道徳とはせいぜい自分と自分の周囲の近しい人々にのみ妥当するもの
であって、たとえば飢えを凌ぐ為に犯罪を犯さざるを得ない人々は論外とされている、と指摘する。
更に永井は、道徳的共同体においては反道徳的に振舞うことが不利になるため,道徳を志向すると
いう安彦の市場主義的な考えにたいし、それは反道徳的行為者がそれこそ市場主義的な狡猾さで
単純に反道徳的な振舞いを控えているだけであって、その論理で道徳の優位性を説く事はできない、
と切り込んでいる。

また永井は、安彦も大庭も、すでにでき上がった道徳の内部に安住してモノを言っているに過ぎない、
と批判している。そもそも永井の立論は、道徳がある個人にとっては抑圧的に働くという事実を
問題的としていた訳で、抑圧があることをもって道徳的としていた大庭や安彦は、この点を見逃して
道徳の優位性を論じていたのである。つまり、どういうことかというと、永井は、道徳というものを
独我論的な純粋哲学の立場から語っていたのに、安彦と大庭は、社会学(あるいは政治学)の一貫
としていわば永井の頭ごなしに語っていた、ということになるのだろう。

14 : ◆Coo/24rCRY :03/02/06 21:46 ID:???
 井上章一「愛の空間」(角川書店・選書/1999)


「皇居前広場」という言葉からSEXを連想する人は、現在はまずいないだろう。
だがかつての皇居前広場は性交をし合う男女が集まる場所だった。第二次世界大戦後、敗戦時直後の頃である。
「『皇居前広場』という名詞が一頃の『墨東』(正確には「墨」ではなく、「暴」に三水を当てる―筆者注)」
というのと同じ様な一種の隠語になろうとは、思い測るべからざる世態になったものだ」と1951年の
「現代風俗帖」で挿絵画家の木村荘八が述べている。この「墨東」とは永井荷風が「墨東綺譚」(1937)で
その私娼窟を描いて脚光を浴びた、隅田川の中流海岸を差す一種の雅称である。
またその当時の「ホープ」という雑誌の1950年九月号には、「噂の皇居前広場」という題で漫画家の横山泰三が
書いたイラストが、発刊後に当局から猥褻だとして摘発を受けているという。
当時の人々は皇居前に性愛の空間を見出し、その言葉から普通に性愛行為を連想できたのだ。

彼らはなぜこんなところに集ってくるのだろう。井上の推論はこうである。

日本が第二時世界大戦に敗戦したのは1945年八月。この頃の大都市圏は有り体に言って焼け野原で、性行為を
営む為の屋内空間が容易に確保できなかった。ところで永井荷風が1948年に執筆した、46年の夏を時代設定と
する「ぬれずろ草子」なる春本がある。ひとりの戦争未亡人が、皇居前広場にて進駐軍兵士を相手に娼婦として
振舞う、という粗筋なのだが、この劇中には日本人の男はでてこない。1950年前後の記録には日本人男女の性交が
書きとめられているが、1946年の夏、敗戦直後だと、皇居前に日本の男はいないのである。どういうことか。
実は、皇居前広場は、塀を挟んで占領軍の司令部に面していた。つまりそこは占領軍の兵士の溜まり場だったのである。
日本の男がここを利用しはじめたのは、そこの占領軍兵士から学習(または真似)したからなのではないか、と。

現代人は屋内での性交が常態であり、屋外は例外だと思いがちだけども、そうした観念が成立したのは二十世紀の半ば、
つい最近の事なのだ、と井上はいう。それ以前は屋内/屋外に別段価値の差はなかった。では、何故人々は屋内へと
向かい出したのだろうか。

15 : ◆Coo/24rCRY :03/02/06 21:47 ID:???
(続き)

その理由を、井上は明確には述べていない。というのも井上はもともと建築史家であり、
本書におけるこの仕事も、たまたま建築史関係の別の仕事の依頼を受けて資料を精査していたら、違う事が気になりだした
というのが動機になっている。だからというわけではないだろうが、井上は、かつての芸娼婦たちの舞台だった
花柳界施設や遊郭が、意匠を留めたまま通俗化してラブホテルへと変化していったことを原因の一端に挙げている。

しかしこれはこじつけもいいところだ。人々が屋内へと向かい出したのは(というか本当に屋内と屋外に価値の差が
なかったかどうか疑わしいが)、単純に屋内のほうが面倒くさくないとか清潔だから。ではないのだろうか。
すくなくとも、これは建築史から導き出せることではなく、どちらかというと社会学か民俗学の領域に属するだろう。
井上の仕事は当り外れがあるというのが定説になっているが、これはどちらかというと外れのほうに分類されると思う。

16 : ◆Ei/Ei.ukZY :03/02/07 00:10 ID:???
ヽ(´ー`)ノ

17 : ◆Coo/24rCRY :03/02/07 07:33 ID:???
>>16
これまた意外でした。是非とも魚くんにだけはこのスレの存在を知らしめてください。

18 : ◆Ei/Ei.ukZY :03/02/07 13:02 ID:???
>>17
あってないからなー、連絡してみようか?( ´ー`)y-~~

19 :ミケ:03/02/07 17:52 ID:???
>>13
「道徳」というもの自体、ひどく曖昧ですね。
一般的に言われる「道徳」とされる事柄は、人間という膨大に生息する生き物がその中で
「お互い不快をあまり感じずに生きていける」為にあると私は思います。
定義自体が多数決で決まるような、そんな確固とした形のないものではないかと。
「なぜ、悪いことをしてはいけないか」というと、
他者の生活・生き方を阻害してしまう可能性が大きく、さらに、そうすることによって、
自らの立場や生活状況が悪くなる、という、望ましくない相互作用があるから、という部分もあると
私は思うのです。
「本当の正しさ」を、人が考える限り、知ることは無いですが、
その場合、多数決が優勢ですよね。
悪いこと=少数派という部分からも、ことなかれ主義的な人間社会に波を立てると見られ、
そして、排除されることになる。
「教え」として、「悪いことは”してはいけない”」と、言うのは、
当然といえば当然な事だと思います。


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